明治150年関連特集
平成30年(2018年)は明治元年(1868年)から満150年にあたります。明治時代には社会の安心・安全を支える損害保険が誕生しました。
明治150年関連施策の一環として、明治時代の損害保険事業についてまとめました。また、損保協会がかつて発行していたリスク専門情報誌「予防時報」に掲載されていた災害絵図のうち、明治時代の自然災害を描いた絵図を一覧化しました。
保険制度を最初に日本に紹介した人物
わが国の近代的な保険制度は文明開化とともに導入されましたが、西欧保険思想を最初に紹介したのは福沢諭吉とされています。福沢諭吉は幕府使節団の通訳等として3回の外遊を経験しており、その経験をもとに慶応3年(1867年)に執筆した「西洋旅案内」で「災難請合の事・イシュアランス」について次のように説明しています。
「災難請合とは、商人の組合ありて、平生無事の時に人より割合の金を取り、万一其人へ災難あれば、組合より大金を出して其損亡を救ふ仕法なり。其大趣意は、一人の災難を大勢に分ち、僅の金を棄て大難を遁るゝ訳にて、譬へば今英吉利より亜米利加へ一万両の荷物を積送るに二百両斗の請合賃を払へば、其船は難船するとも、荷主は償を取返すべし。」 「災難の請合に三通りあり。第一 人の生涯を請合ふ事。第二 火災請合。第三 海上請合・・・」
この三通りの災難請合は現在の生命保険、火災保険、海上保険を指しており、これが西洋保険思想の最初の紹介となったのです。
なお、「イシュアランス(インシュアランス)」を「請合」と訳しているのは蘭学によるものです。福沢諭吉は蘭学を修めた後、英語を学んで通訳を務めるようになりました。当時は保険を意味するオランダ語の和訳には「請合」という言葉が当てられていたことから「西洋旅案内」でも「請合」という言葉を使ったと言われています。わが国で「保険」という言葉が一般的に使われるようになったのは明治10年以降です。
外国損害保険会社の進出
嘉永6年(1853年)にペリーが来航し、5年後の安政5年(1858年)には日米修好通商条約が締結され、その翌年には神奈川、長崎、函館が開港となりました。これに伴い、多くの外国商人とともに損害保険会社も来日しました。
開港の翌年には各港に税関が設置され、貿易が活発化するにつれて倉庫に保管された毛織物等の輸入貨物に火災保険が必要となり、欧米の保険会社が神奈川、長崎、函館に進出しました。文久元年(1861年)11月には横浜にあったイギリスのインペリアル火災保険会社が英字紙ジャパン・ヘラルドに「建物およびその中の貨物に対し、5000ポンドまでの範囲で火災保険を引き受ける」広告を掲載しています。
当初、外国保険会社は居留していた外国人または外国商社を相手にしていましたが、文明開化の名のもとに西欧の諸制度が導入されるにつれて、日本商社や日本人相手の外国保険会社も誕生しました。明治14年(1881年)に大蔵卿佐野常民が太政大臣三条実美に提出した報告書によると、当時、横浜にあった火災・海上・生命等の保険業を営む外国会社は72に及び、このうち火災保険を扱う会社が30社あったとされています。明治維新とともに外国保険会社の進出が激しくなっていたことが伺えます。
明治政府の政策と損害保険事業
明治政府は富国強兵・殖産興業のスローガンのもと、民間を指導して近代的産業の保護・育成を行い、損害保険制度についてもこうした官営方針の採用が見られました。明治2年(1869年)に政府は、従来、外国保険会社のみに火災保険を引き受けさせていた神奈川税関の保税倉庫の保管貨物について、政府自ら火災保険を引き受け、外国保険会社と競争するようになりました。これは一種の官営火災保険事業とみることができます。
明治政府は損害保険事業について、民間に払い下げるのではなく、保険制度の導入に向け、積極的な保護・育成の方針を掲げていました。
わが国最初の保険会社の誕生
日本で最初の保険会社はちょっとしたハプニングを契機に誕生しました。明治6年(1883年)旧大名や華族が中心となって東京・横浜間の鉄道の払い下げを政府に申請し、310万円を7か年賦で納付する条件で払い下げる計画が進みましたが、途中、資金調達が困難になったことからこの計画は取り消され、既に納付した64万円が返金されました。
華族達はこの資金を活用し殖産興業に役立つ新事業を興すこととし、海上保険会社の必要性を唱えていた渋沢栄一が自国資本による海上保険会社の設立を提案して、明治12年(1879年)資本金60万円で東京海上保険会社(現在の東京海上日動火災保険株式会社)が設立されました。
各種保険の誕生
前述の海上保険をはじめ、明治時代から大正時代にかけて以下の損害保険も誕生しています。
自動車保険
日本に初めて自動車が上陸したのは明治30年(1897年)に横浜在住の外国人が輸入した蒸気自動車と言われています(明治32年(1899年)に神戸の商社が輸入したガソリン車という説もあります)。その後、明治37年(1904年)に国産自動車第一号が完成すると、損害保険会社に自動車保険業務を始めようとする機運が高まり、大正3年(1914年)に自動車保険の取扱いが開始されました。この年のわが国の自動車保有台数はわずか1000台程度、小さく誕生した自動車保険でしたが、現在では主力商品に成長しました。
火災保険
東京医学校(現在の東京大学医学部)のドイツ語教師として来日したパウル・マイエットが日本は木造家屋が中心でありながら火災保険が無いことに驚き、火災、震災、暴風、洪水等の被害を補償する建物の国営の強制保険化を明治政府に提案しました。当時は自由経済主義が主流であったことからこの提案は却下されましたが、火災保険への関心は次第に国民に浸透し、明治20年(1887年)に火災保険会社が設立されました。
貨物保険
明治5年(1872年)に新橋・横浜間で鉄道が開設されたことに伴い、鉄道で輸送される貨物の保険を引き受ける会社が設立されました。また、明治6年(1873年)に北海道開拓事業を発展させる目的で函館・東京・大阪間の貨物運送および保険を引き受ける会社が、東京を中心に千葉県、茨城県、神奈川県、静岡県の沿岸および河川輸送の貨物輸送および保険を引き受ける会社が設立されました。
このほか、傷害保険も明治44年(1911年)に専門会社が設立され、取り扱いが開始されています。明治時代は、まさに日本の損害保険の黎明期と言えます。
明治時代の損害保険関連年表
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明治5年 |
陸運元会社(日本通運の前身)が設立され、陸上運送貨物の危難請合開始 |
新橋~横浜間鉄道開通 |
明治6年 |
保任社が設立され積荷の危難請合開始 |
徴兵制公布 |
明治7年 |
国際海上保険連合(IUMI)ベルリンで創立 |
佐賀の乱 |
明治12年 |
大蔵省に火災保険取調掛が設立 |
琉球藩廃止・沖縄県設置 |
明治14年 |
大蔵卿佐野常民が家屋保険法案(国営強制火災保険計画)を太政大臣三条実美に提出 |
農商務省設立 |
明治15年 |
太政大臣が家屋保険法案を否決 |
日本銀行営業開始 |
明治16年 |
船舶保険認可 |
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明治20年 |
わが国最初の火災保険会社である東京火災保険会社が設立 |
大日本帝国憲法(明治22年発布)の草案検討開始 |
明治23年 |
保険監督行政は農商務省商工局所管となる |
旧商法公布 |
明治26年 |
運送保険認可 |
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明治28年 |
志田鉀太郎・玉木為三郎・粟津清亮の3氏が保険学会を設立 |
日清講和条約調印 |
明治29年 |
外国保険会社代理店が同業組合を組織して火災保険料率を協定 |
三陸地震(死者21,959名) |
明治30年 |
わが国最初の海上保険料率協定成立 |
貨幣法が公布・施行され金本位制が確立 |
明治31年 |
旧商法全面施行、保険業は免許制となり保険監督行政の基礎確立 |
旧商法全面施行 |
明治32年 |
火災保険同盟会結成 |
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明治33年 |
保険業法公布・施行 |
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明治37年 |
身元信用保険認可 |
日露戦争勃発 |
明治39年 |
農商務省商工局保険課「保険会社一覧」を発行 |
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明治40年 |
火災保険協会設立 |
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明治41年 |
機関・汽罐保険認可 |
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明治44年 |
傷害保険認可 |
日米通商航海条約改正調印により関税自主権確立 |
明治時代の災害を描いた絵図(リスク専門情報誌「予防時報」より)
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津波 |
同和火災海上保険株式会社 |
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津波 |
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火災 |
神戸市立南蛮美術館 |
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台風 |
東京大学地震研究所 |
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噴火 |
東京大学地震研究所 |
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洪水 |
東京大学地震研究所 |
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地震 |
東京大学地震研究所 |
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洪水 |
東京大学地震研究所 |
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火災 |
株式会社資生堂 |
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噴火 |
東京大学地震研究所 |
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洪水 |
新潟県美術博物館 |
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地震 |
一宮市立豊島図書館 |
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火災 |
秩父市立図書館 |
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洪水 |
神戸海洋気象台 |
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地震 |
酒田市立図書館 |
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地震 |
一宮市立豊島図書館 |
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噴火 |
福島県立図書館 |
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台風 |
気象庁 |
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洪水 |
防災専門図書館 |
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その他 |
群馬県立文書館 |
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その他 |
群馬県立文書館 |
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その他 |
気象庁 |
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地震 |
岐阜県立図書館 |